九州工業大学
概観
東京帝国大学(現在の東京大学)の総長を務めた山川健次郎と安川財閥の創始者である安川敬一郎によって、1909年(明治42年)に私立の旧制工業専門学校・明治専門学校として開校(安川敬一郎は明治専門学校以外に安川電機、明治鉱業、黒崎窯業(現・黒崎播磨)、明治専門学校附属小学校(現・明治学園)等を設立した)。当時は明専(めいせん)と呼ばれた。1921年(大正10年)に官立に移管され、1949年(昭和24年)5月31日に国立九州工業大学は設置された。国立大学の中では唯一の情報工学部を持ち、また大学院生命体工学研究科は北九州学術研究都市に進出していて、安川電機、早稲田大学、北九州市立大学、九州歯科大学、産業医科大学、英国クランフィールド大学、理化学研究所脳科学総合研究センターなどと連携している。九州最大の工業地帯である北九州工業地帯に位置する国立工業大学であり、わが国の産業発展と人材育成に努めている。小惑星イトカワに到達した小惑星探査機はやぶさ(MUSES-C)の試験を行ったことでも有名。卒業生の就職率が良く、企業からは非常に高い評価を得ている。
明治専門学校には、政治家では尾崎行雄、犬養毅、大隈重信、原敬を始めとする首相、閣僚級の人々、学者では長岡半太郎、手島精一、実業家では益田孝、渋沢栄一、團琢磨、藤山雷太他の重鎮等、多くの著名人が来校している。
明治専門学校のOBである藤田哲也博士は、気象学のノーベル賞と呼ばれる「フランス航空宇宙アカデミー金メダル」を受賞しており、気象学の研究者として世界的な評価を受けていた。
建学の理念
初代総裁である山川健次郎が示した『技術に堪能(かんのう)なる士君子』という理念がある。ただの技術者を育てるのではなく、技術に精通した士君子(gentleman)を育てもって日本を支える人材を育成しようとされた山川健次郎、安川敬一郎両人の教育に対する思いが込められている。学校の創立構想では、理学学校として出発し失敗した東京専門学校(早稲田大学の前身)の大隈重信の忠告もあり、文系学部も順次創部し、将来的に総合大学にするという構想から、校名に「工業」の言葉を入れなかった。 現在ではさらに、教育・研究の高度化を行い、「知と文化の情報発信拠点」として、また、教育・研究機関として次世代産業の創出・育成に貢献し、個性豊かな工学系総合大学を目指して、生命原理の学際的工学などの学術的な新たな試みが多くされている。