ハッピーエンド
概要
物語の終わり方の種類。
目的を達成したり、好きな人と結ばれたり、希望が見える終わり方の場合こう呼ばれる。 対義語にバッドエンドがある。ハッピーともバッドとも判別しがたい場合は「開かれた終わり」(メリーバッドエンド)。
おそらく童話の英雄、大衆文化、サブカルチャーにおける殆どの物語はハッピーエンドである。
ハッピーエンドの定義としては諸説あるが、
メインとなる登場人物が幸せな状態になる。 絶望的と思われた状況から復帰して、最良(または最良とは言わなくとも二番目くらい)の結果を得る。 ずっと望んでいた事が、果たされたり、さらに昇華する。 予想外の「登場人物にとって嬉しい展開」が発生する。 努力が最後に実を結ぶ。(勝負物の場合勝ち負けが関係ない場合も多い) 上記項目のいずれかがが確実に満たされる条件が整う。(俺たちの戦いはこれからだエンドとは少し違う)
これらのいずれかを満たしていればハッピーエンドと断定してかまわないだろう。
要するに、「最初から最後までずっとハッピーな状態が持続する」というのではなく、喜怒哀楽様々なドラマパターンが続き、最終的に良い結果を迎える事がハッピーエンドである。
逆に言えばそこまでの経緯に「ハッピーではない展開」が皆無だった場合、ハッピーエンドにはなりえない。(そもそもいつも通りのため)
最近、自分の思い通りにいかないとすぐにバッドエンドだとぬかす人もいるが、あまり表面的な部分だけでハッピーエンド、バッドエンドは語らない方が良い。
好きなキャラクターが頑張り、幸せになるのを見るのは誰だって嬉しくなるだろう。
また、一度バッドエンドを迎え、絶望した後に希望が射し込み、そこから立ち直りハッピーエンドで終わる真のエンディングを迎える、という展開は非常に燃えるものがある。
「エンターテイメントの基本は笑顔とハッピーエンド」という作家がいるほどに非常に前向きで読んでいて気持ちが良く好む人も多い。 ただ、その話の展開が安直すぎたり無理矢理すぎると「ご都合主義」と揶揄されたりもする。 最近の作品ではハッピーエンドとは別にトゥルーエンドがあり、ハッピーエンドが一つの可能性に置かれるものもある。
ハッピーエンド否定派の意見
そもそもハッピーエンドとは嘘臭いものである、とバッドエンド症候群の虚淵玄は語る。
氏曰く「物事は何もしなければ総じて悪くなっていく。どう転んだところで宇宙が冷えて行くのは止められない、"理に適った展開"だけで積み上げられた世界はどうあってもエントロピーの支配から逃れられない」 「故に物語にハッピーエンドをもたらすには条理をねじ曲げ、黒を白と言い、宇宙の法則に逆境する途方もない力を要求する。そこまでして人間讃歌を謌い上げる高貴な魂があってこそ物語を救済出来るのだ」 とのこと。(もっとも、氏の作品に対し、バッドエンドまでの展開が無理矢理すぎる「"負の"ご都合主義」と揶揄する声もあり、そもそもこの言葉は「そんな意識があるから自分がうまく書けない。ハッピーエンドに持っていける作家はすごい。」というような意味の内容につながっているので別に氏はハッピーエンドを批判しているわけでは無いのだが)
いずれも感傷に過ぎないとする意見
文学や芸術の領域では、上記の虚淵氏よりも遥か昔からハッピー(喜劇性)批判・バッド(悲劇性)賛美がなされてきており、それに対する返答や反論も数多い。 例えば「飛ぶ」ことの理非善悪にこだわる態度に対して、次のような言葉がある。 >鳥は、行くところへ行こうと思って飛んでいるだけなんで、何も空を飛ぶことが永遠につながると思って飛んでいるわけじゃない。 (D.H.ロレンス『息子と恋人』1913年)
あるいは、そもそも世界を二元論的に認識することに対して、次のような指摘がある。 >喜劇的な見方では、植物の世界は庭園、木立や公園、生命の樹や薔薇である。 >悲劇的な見方では、それは不吉な森、荒野や原生自然、クリフォトの樹である。 (ノースロップ・フライ『同一性の寓話』1963年)
これらは、ハッピーかバッドかの二分をする感情主義に対してリアリズム(写実主義)の視点から浴びせた言葉である。 物語にリアルな説得力や迫真性を持たせるリアリズムの立場に立てば、 物語がどんな結末を迎えようがリアルには結末も「[[黙示録の四騎士(天使)|最後の審判]」も起こらない、という論理的・数量的事実を認める必要がある。 現実とは物理学の法則や数式通りに延々と運行している"理に適った展開"であって、そこには呪いも救いも無く、ハッピーもバッドも無い。 たとえ「宇宙の終焉」仮説(エントロピー増大による宇宙の熱力学的死など)が実現しても、科学的にごく自然な出来事が発生しただけである。
ハッピーやバッド等と分類した結末の描写を嘘臭いと批判するリアリズムの傾向は、19世紀から加速した自然科学の発達に伴っている。 これは「脱神話化」「脱宗教化」「合理化」とも呼ばれる。 第一に幸福か不幸かという判断は感情に大きく根差しており、ロマン主義的括りに捕らわれていることを自然科学が浮き彫りにし、批判した。 文芸もその影響下にあり、感情よりも理性を、印象よりも分析を用いることで説得力をもたせようとした。 このような実証主義や数量化に基づく傾向によって、宗教やロマン主義、ファンタジーは不条理な迷信、宇宙の自然法則をねじ曲げたかのように見せる「嘘」として、 大きく地位を引き下げられたのである。
それでもハッピーエンドへ?
確かに現実はそんなに甘くなく「こんな上手くいくわけねーよ!」と言ってしまえばその通りである。
だが、だからこそ人はハッピーエンドを望むのではないか。 あの「水戸黄門」だって、ご都合主義だの予定調和だの言われながら、未だに根強い支持を受けているじゃないか。 ほら、某病弱少女は「物語の中でくらいハッピーエンドがみたいじゃないですか」って言ってたし。
原作の悲劇を覆し、救えなかった者を救うというif展開こそが醍醐味というスーパーロボット大戦というクロスオーバー作品だってある。
「だからこそ現実にしたいじゃない、本当は綺麗事がいいんだもん」とサムズアップの似合う冒険家、五代雄介も言っている。
アーカムシティのとある貧乏探偵はバッドエンド丸分かりな脚本のリテイクをヘボ監督に要求し、力づくで押し通した。 なんか違うか? なんか悪いか? 問題があるか?
なお、ある作家曰く、「一流のハッピーエンドを描くのは一流のバッドエンドを描くことの数倍難しい」とのこと。 実際、あるアニメ作品のノベライズでアニメの悲劇を覆した事を作者は後書きで、「一流の悲劇よりも三流の喜劇を選んだ」と語る。 かなりの余談だが、「ハッピーエンド」の上をいく「ベストエンド」というものがある。
さらなる余談だが、その年の関東地方中央競馬最終競走となる、 中山競馬場第11レースは「ハッピーエンドプレミアム」(プレミアム制がある前はハッピーエンドカップ)という、 サラブレッド系三歳上1200万条件のハンディキャップ競走があるが、例年堅い決着が少ないため、 ハッピーエンドで終わる人と終わらない人の差が激しい特徴がある。 「うしおととら」「からくりサーカス」の作者である藤田和日郎氏はうしおととらを構想した理由についてコミックス1巻で、「小さいころに読んでもらったマッチ売りの少女のお話が大嫌いだった、女の子があまりにも救いようのない最期を遂げてしまうからだ。それを救うようなキャラを描きたかった」 ということを語っていた。 しかし連載後期においては、「漫画を描いているうちにマッチ売りの少女の物語が大嫌いだった本当の理由が分かった。それは少女自身が自分の悲惨な境遇と向き合って戦おうとしていなかったからだ」と語った(どちらも原文ママではない、省略あります)。 ハッピーエンドとはどんな絶望的状況でも必死で立ち向かって得てこそ価値がある、というものである。 実際藤田先生(と、富士鷹ジュビロ先生)の作品はそういう過程を置いてからのハッピーエンドとなる事も多い。
ガチャピンなる恐竜のモデルとなったとあるSF作家は自著の後書きで、マッチ売りの少女と人魚姫の結末を熱く激しく否定した。 無理やりだと、滅茶苦茶だと、話が破綻すると分かっていてもハッピーエンドに変えるための手段の一例を自著の「著者の御挨拶」で披露してくれた。 ハッピーエンドをその手で掴もうとする人たちを救う人たちが、ヒーローたちがいてもいいじゃないかと言わんばかりに。 だからこそ人はハッピーエンドを望み、それを実現してくれるヒーローの存在も望むのかもしれない。