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福岡県立修猷館高等学校

福岡県立修猷館高等学校(ふくおかけんりつしゅうゆうかんこうとうがっこう、英称:Fukuoka Prefectural Shuyukan High School)は、福岡県福岡市早良区西新六丁目1番10号にある男女共学の公立高等学校である。略称「修猷館(しゅうゆうかん)」、「修猷(しゅうゆう)」。
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概観

修猷館の名は尚書(書経)「微子之命」の章句、「踐脩厥猷」(湯王(天乙)の道を踏み修む)から取られた。藩校設立以来230余年、校名に一貫して"修猷館"を掲げている。自由な校風であり、生徒に学校運営をほぼ委ねる自治を認めている。生徒を「館生」、校長を「館長」、校歌を「館歌」、校旗を「館旗」と称する。アイザック・ニュートンのリンゴの木の子孫が敷地内に植えられている。 福岡県立福岡高等学校とは旧制福岡中学が大正6年修猷館の寄宿舎の一部を借りて開校したことや、福岡中学での昭和2年火災校舎全焼時の福中復興支援を全校で行ったことや武士の町福岡の代表校修猷館とその対照に商人の町博多の代表校福岡といったことを背景に両校の関係は特別に深い。ラグビー部では毎年天皇誕生日に福高定期戦を行っている。その他、バスケット部、バレーボール部、剣道部も福岡高校と現役及びOBを交えた定期戦を行っている。さらに東京修猷会の周年行事やラグビー部や野球部など長い伝統を持つ部の周年行事には良きライバル校として福岡高校の関係者も招待することが行われている。

沿革

  • 1783年(天明3年)6月24日(旧暦) - 福岡藩第9代藩主黒田斉隆(江戸幕府第11代将軍徳川家斉の実弟)が藩儒竹田定良、儒医亀井南冥に藩校創建を命じる
  • 1784年(天明4年)2月1日(旧暦) - 福岡藩の藩校として甘棠館(西学問稽古所)開館。初代館長は亀井南冥
  • 1784年(天明4年)2月6日(旧暦) - 同じく福岡藩の藩校として修猷館(東学問稽古所)開館。初代館長は竹田定良
  • 1798年(寛政10年)1月29日(旧暦) - 唐人町より発した大火により甘棠館焼失。生徒は皆修猷館に編入し以後福岡藩の藩校は修猷館のみとなる。
  • 1871年(明治4年)10月25日 -廃藩置県により、福岡県が成立。後の1874年 福岡県はこの地に診療所を設置、これが九州大学の起源となる
  • 1879年(明治12年)1月5日 - 向陽社(後の玄洋社)により向陽義塾設立
  • 1881年(明治14年)1月7日 - 向陽義塾閉塾
  • 1881年(明治14年)1月7日 - 向陽義塾を引き継ぎ、旧福岡藩主黒田家により藤雲館設立
  • 1885年(明治18年)侯爵黒田長溥、金子堅太郎と福岡の旧藩士の尽力により、廃止から十四年振りに修猷館と同名の学校を設立することで、再興したと称することが出きるようになるとすることが決定。
  • 1885年(明治18年)5月30日 - 福岡県令より、英語専修学校である福岡県立修猷館の設置が告示される(同日を創立記念日としている)
  • 1885年(明治18年)9月10日 - 福岡県立修猷館を開館[7] 開館式を行う 黒田家の寄付により藤雲館の校舎・什器一切を引き継ぐ
  • 1887年(明治20年)3月26日 - 原因不明の出火により全焼。一時的に旧警固小学校跡に移転
  • 1889年(明治22年)3月13日 - 福岡県立尋常中学修猷館と改称
  • 1889年(明治22年)3月15日 - 隈本有尚館長、金子堅太郎、栗野慎一郎らの尽力により旧藩校修猷館跡である大名町堀端(現・中央区赤坂1丁目)に再建・移転
  • 1891年(明治24年)3月24日 - 投石事件
  • 1894年(明治27年)12月 - 六光星の徽章を制定
  • 1899年(明治32年)4月1日 - 中学校令改正に伴い、新年度より福岡県中学修猷館と改称
  • 1900年(明治33年)7月17日 - 大名町から西新町(現在の場所)へ移転
  • 1901年(明治34年)5月4日 - 福岡県立中学修猷館と改称
  • 1923年(大正12年)3月5日 - 館歌制定
  • 1925年(大正14年)4月1日 - 福岡県中学修猷館と改称
  • 1927年(昭和2年)6月22日 - 福岡中学校舎火災に伴い修猷館の一部を仮校舎として貸す
  • 1945年(昭和20年)6月19日 - 福岡大空襲により大きな被害を受ける
  • 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革に伴い、新年度より福岡県立高等学校修猷館と改称
  • 1949年(昭和24年)4月20日 - 新年度より男女共学となり、初めての男女共同入学式実施
  • 1949年(昭和24年)8月31日 - 福岡県立修猷館高等学校(現校名)と改称
  • 1985年(昭和60年) - 創立200周年記念事業開始( - 1987年) 同年3月26日、菁莪堂(正しくは菁莪記念館)竣工
  • 1998年(平成10年)3月 - 新校舎建設事業開始 (卒業式を待ち、まず最初に講堂が解体)
  • 2000年(平成12年) - 第一期工事(教室棟)完成
  • 2002年(平成14年)4月 - 文科省よりスーパーサイエンスハイスクール(第一期)の指定を受ける(2006年度を以て終了)
  • 2002年(平成14年) - 第二期工事(管理棟)完成 校舎建て替え・福岡県立博多青松高等学校の開校により定時制課程を閉課
  • 2003年(平成15年) - 第三期工事(新体育館)完成
  • 2005年(平成17年) - 第四期工事(プール、弓道場、ヨット部艇庫)完成
  • 2008年(平成20年) - 第五期工事(新講堂、新正門)完成 これにより10年に亘る新校舎建設事業完了
  • 2013年3月18日 - 旧正門が福岡市登録文化財に登録される

徽章

光星と呼ばれている。1894年(明治27年)12月、当時の館長隈本有尚によって、日清戦争直後の興隆する国運を背景に制定された。由来は朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」によるものであり、日月と輝きを同じくする星の光に将来を荷う若き青年の希望を託したものである。なお、この星の形は北極星をかたどったものであり、永久にゆるがぬ人生の指針をこの星に仰ぐという意味がこめられているとも言われている。 隈本は、昭和9年に当時の館長古賀毅への書簡において六光星の由来を記しており、その中でデザインの選定理由を「技術上(下絵製作上)にも等辺三角形を重ねるのであれば職人に於て手落あるまじく」と述べている。このように、上下逆転させた2つの正三角形を重ねたシルエット(各頂点の内角は60°)が正式な形である。

著名な出身者・関係者

出典

公式サイト

最終更新: 2019年2月28日 (木) 19:52
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